Masuk九十日間の仮婚姻契約を結んだ結果、私が最初に得たものは夫でも王妃の地位でもなく、五十三枚の契約書と、王宮の使用人たちから向けられる妙に生温かい視線だった。
どうしてこうなった。
「リア様、お荷物はこちらでよろしいでしょうか」
「ええ。それと、その衣装箱は私のものではありません」
「こちらは王宮衣装局より届けられたものでございます」
「送り返してください」
「……開ける前に?」
「開けたら負けな気がします」
「何との勝負でございますか」
「王宮です」
侍女長マルタは、私が何を言っているのか分からないという顔をしたあと、「承知いたしました」と真顔で答えた。
たぶん分かっていない。
私もよく分かっていない。
ただ、王妃候補として用意された衣装など一度袖を通せば、翌日には「リア監査官、早くも王妃気取り」などと書かれるに決まっている。
昨日だけで私は、自分について書かれた新聞の見出しを七つも確認している。
そのうち三つは事実と違い、二つは悪意があり、一つは見出しだけ読むと私がカエルを寝室で誘惑したようになっていて、残りの一つに至っては、
『冷血王を骨抜きにした銀髪の魔女』
だった。
私はまだ、彼と食事すらしていない。
何をどう骨抜きにしたというのだ。
「ところでマルタさん」
「はい」
「王宮新聞局へ名誉毀損で抗議するには、どちらへ行けばいいでしょう」
「まず王宮広報局でございます」
「そこが記事の情報源だった場合は?」
「諦めるのが最も心穏やかかと存じます」
「経験者の言葉みたいですね」
「王宮で二十七年働いておりますので」
「……説得力があります」
私は諦めた。
ここは王宮西棟の一室。
当初カエルは、私を自分の私室に隣接する王妃用区画へ入れるつもりだったが、契約交渉の結果、最終的にはそこから廊下一本を挟んだ客室へ落ち着いた。
隣ではない。
正確には、カエルの私室から数えて三部屋目。
彼は最後まで、
「遠い」
と言い張った。
どこが遠いのだろう。
普通に歩けば二十秒ほどである。
全力なら五秒もかからない。
それでも本人は不満だったらしく、最終的に廊下へ近衛兵を四人置くことで妥協した。
私からすると、兵士の皆さんに大変申し訳ない。
「陛下は、昔からこうなんですか?」
荷解きを手伝っているマルタへ訊いてみる。
「こう、と申しますと?」
「一度決めると、なかなか譲らないところです」
「はい」
即答だった。
「やっぱり」
「幼少の頃からでございます。七歳の折、陛下が城下の祭りへ行きたいと仰ったことがありまして」
「王子様が?」
「当時は第二王子でございました。先王陛下がお許しにならなかったのですが、翌朝にはご自分で侍従服を着て厨房の荷車へ隠れておられました」
「……成功したんです?」
「正門で見つかりました」
「ちょっと安心しました」
「その翌年は、屋根伝いに外壁まで行かれました」
「懲りてない」
「その次の年には、厨房へ納品に来る商人の息子と服を交換なさいました」
「改善している」
「褒めるところではございません」
でも、少し面白い。
今のカエルからは想像しにくかった。
威圧感の塊のような大男が、子供の頃は侍従服で荷車に潜んでいたと思うと、次に会ったとき少し笑ってしまいそうだ。
「それを陛下に言ったら怒られます?」
「私が話したことは伏せていただければ」
「分かりました」
「ぜひ」
「マルタさんも命が惜しいんですね」
「長生きしたいので」
本当にこの人は正直だ。
私は衣装箱を閉じながら、ふと思った。
「……陛下のお兄様は、どんな方だったんです?」
マルタの手が止まった。
一瞬。
ほんの一瞬だったが、確かに空気が変わった。
「先王太子殿下でございますか」
「ええ。三年前に亡くなったと」
昨日カエルが言っていた。
兄が死んだ夜、胸に不完全な番刻印が現れた。
そこに何かがある。
監査官としてなら、当然調べるべきことだ。
けれどマルタは、すぐには答えなかった。
「お優しい方でございました」
しばらくして、やっとそれだけ言った。
「陛下とは、ずいぶん違いました?」
「……そうですね」
少し困ったように微笑む。
「先王太子殿下は、誰に対してもお優しかった。対してカエル陛下は、好き嫌いがはっきりしておられますし、お世辞がお嫌いで、機嫌が悪いと廊下の端からでも分かります」
「そこまで?」
「侍女たちは遠回りいたします」
「王様として大丈夫なんですか、それ」
「ただ」
マルタは私のほうを見た。
「先王太子殿下は、誰にでも優しい方でした。そしてカエル陛下は、大切だと思った相手にしか優しくならない方でございます」
「……それ、褒めています?」
「どうでしょう」
「本人に聞かれたら怒られますよ」
「リア様からはおっしゃらないのでしょう?」
「もちろんです」
「では問題ございません」
この人、強い。
◇
問題は、部屋へ入ってから一時間ほど経った頃に起こった。
荷物もほぼ片づき、マルタが夕食の確認へ出ていったあと、私は王宮の内部配置図を机へ広げていた。
侵入経路。
昨日の即位式から現在まで、私が移動した場所。
荷物の輸送経路。
誰が私と接触したか。
書き出していく。
こういう作業は好きだ。
人間の言葉は嘘をつくが、時間と場所は比較的嘘をつかない。
「王宮西門、十三時十二分……大聖堂、十三時三十七分……」
独り言を呟きながら記録する。
そのとき扉を叩く音がした。
「はい」
「失礼いたします」
若い女性の声。
入ってきたのは三人の侍女だった。
一人は茶器。
一人は焼き菓子。
もう一人は花瓶を抱えている。
「マルタさんは?」
「夕食の打ち合わせに」
答えたのは先頭の侍女だった。
二十歳を少し越えたくらいだろう。
栗色の髪。
顔立ちは整っている。
ただ、私を見る目が冷たかった。
「こちら、王妃候補の方へお出しする歓迎のお茶でございます」
「私は王妃候補という扱いではありません」
「ですが、陛下の番なのでしょう?」
「その点も調査中です」
「刻印があるのに?」
妙な言い方だった。
私はペンを置いた。
「お名前は?」
「リゼットでございます」
「リゼットさん。あなたは王宮侍女ですね?」
「はい」
「所属は?」
「第一王妃付き侍女室……いえ、現在は王家儀典局におります」
引っかかった。
「第一王妃付き?」
「前王妃陛下が亡くなられた後、再編されましたので」
「そうでしたか」
私は笑った。
「ありがとうございます。お茶はそこへ置いてください」
リゼットは動かない。
「飲まれないのですか?」
「あとで」
「毒を疑っていらっしゃる?」
少し挑発的だった。
後ろの侍女二人が気まずそうに目を伏せる。
「疑っていますよ」
私が答えると、リゼットの眉が動いた。
「……随分な言いようですこと」
「王宮内で偽造薬を仕込まれた人間が、無警戒に飲食物を口にするほうがおかしいでしょう」
「私どもが犯人だと?」
「あなたが犯人だとは言っていません」
「同じことでは?」
「まったく違います」
私は立ち上がった。
「信用していないことと、犯人だと断定することは別です。むしろそこを区別できない人は、監査官にならないほうがいいですね」
リゼットの頬が赤くなる。
「……陛下がなぜあなたを」
「選んだ、と言いたいんですか?」
「刻印が選んだのでしょう」
「そうかもしれませんね」
否定しなかった。
すると、かえって彼女は戸惑ったようだった。
「悔しくないんですか」
「何が?」
「あなたのような……」
そこで言葉を切る。
「どうぞ」
「無月者が」
後ろの二人が、息を呑んだ。
来ると思った。
久しぶりだった。
直接それを言われるのは。
「無月者が、何です?」
「……陛下の番だなんて」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
痛くない。
と言えば嘘になる。
慣れている。
というのも半分は嘘だ。
人間は、傷つくことに完全には慣れない。
ただ、顔に出さない方法が上手くなるだけだ。
「なるほど」
私は椅子の背に手を置いた。
「つまりあなたは、私が陛下の番であることが不満なのですね」
「そんなことは――」
「別に構いませんよ」
「え?」
「人間ですもの。誰かを好きになることも、その人の隣に立つ相手を嫌うこともあります。立場だけで感情まで清潔にしろと言われても無理でしょう」
リゼットは驚いた顔をした。
「ただし」
私は続けた。
「嫌いだから犯罪をしていいとはなりません。陰口くらいなら好きにしてください。お茶を少し冷たく出すくらいなら、たぶん私も気づかないふりをします。でも毒を入れたり、私の荷物へ禁制薬を入れたりしたら、その瞬間から私はあなたを『傷ついた恋する女性』ではなく『容疑者』として扱います」
「わ、私はそんなことしていません!」
「だから断定していません」
「……あなた」
「はい」
「嫌な女ですね」
「よく言われます」
「腹が立たないんですか?」
「立ちますよ」
これは本音だった。
「ただ、腹を立てることと、その感情のまま相手へ仕返しすることは別です。それを一緒にしたら、監査官なんてやっていられません」
リゼットの表情が崩れた。
怒りなのか、泣きそうなのか、本人にも分かっていない顔だ。
「私は……」
ぽつりと漏らす。
「子供の頃から陛下を知っています」
ああ。
やっぱり。
「父が近衛兵でしたから。まだ第二王子だった頃、陛下は何度も訓練場へ来ていました。誰より強くて、なのに……怪我をした兵士には、自分の薬を黙って置いていったりして」
知らない一面だった。
「先王太子殿下が亡くなったあと、陛下はほとんど笑わなくなりました。それでも、いつか番が現れれば少しは……と、皆、思っていたんです」
「皆?」
「侍女の中には、馬鹿な期待をした者もいます」
「あなたも?」
リゼットは唇を噛んだ。
否定しない。
私は、少しだけ困った。
嫉妬されること自体には慣れていない。
というより、そもそも誰かの恋敵になった経験がほとんどない。
「私にそれを話して、どうしたいんです?」
「分かりません」
これも正直だった。
「あなたが傲慢な女なら、もっと嫌えたのに」
「十分嫌っていますよね?」
「そういうところです!」
「すみません」
「謝らないでください!」
「難しいですね」
「本当に嫌な人!」
そこまで言って、リゼットは泣きそうな顔で部屋を出ていった。
残された二人の侍女が困り果てている。
「追わなくていいんですか?」
一人に聞く。
「……追ったほうがよろしいでしょうか」
「友達なら」
「友達です」
「じゃあ追ってあげてください。今たぶん、一人にすると余計なことを考えます」
二人は頭を下げ、慌てて後を追った。
部屋に静寂が戻る。
「……人間関係って、面倒」
思わず呟いた。
机の上には、飲まれなかった紅茶がある。
湯気だけが静かに上がっていた。
◇
「お前、侍女を泣かせたのか」
夕食前。
やって来たカエルの第一声がそれだった。
「違います」
「リゼットが泣いていた」
「見たんですか?」
「廊下でな」
「だったら本人に聞いてください」
「聞いた」
「何て?」
「『あの女が思っていたより普通に話が通じるから余計に腹が立つ』と」
「褒められてるんですか、それ」
「俺にも分からん」
カエルは勝手に椅子へ座った。
私は睨む。
「何です?」
「夕食だ」
「ここで?」
「ああ」
「陛下の食堂で食べればいいでしょう」
「お前が食堂に来ないと言った」
「仕事があるので」
「なら俺が来た」
「そういう意味ではありません」
「俺も仕事を持ってきた」
彼が持っていた書類束を机へ置く。
量が多い。
「……何です、それ」
「王位継承に関する三年前の記録」
私は一瞬で態度を変えた。
「見せてください」
「やはり食いついたな」
「そのために来たんでしょう」
「半分は」
「残り半分は?」
「食事」
「一人でできるでしょう」
「今日は昼も食べていない」
「……陛下が?」
思わず顔を見た。
「即位式が止まり、禁制薬が出て、契約書を五十三枚に増やした女がいるからな」
「最後だけ私のせいですね」
「全部かなりお前が関係している」
「即位式を止めた件は仕事です」
「分かったから食べろ」
マルタたちが料理を運んでくる。
肉の煮込み。
焼きたてのパン。
野菜のスープ。
思ったより普通だった。
「王様って毎日もっと豪華なものを食べるのかと思いました」
「毎日豪華なものを食べていたら飽きる」
「その感覚はあるんですね」
「俺を何だと思っている」
「金の食器で朝から鳥の丸焼きを食べている人」
「偏見がひどい」
「王様に知り合いがいなかったので」
「今できたな」
「監査対象です」
「九十日間の仮夫でもある」
「その言い方やめてください」
マルタが笑いを堪えている。
私は見逃さなかった。
「マルタさん」
「何でございましょう」
「笑いました?」
「いいえ」
「絶対笑いました」
「年を取ると顔の筋肉が勝手に動くのでございます」
「便利ですね、その言い訳」
カエルまで笑っている。
「陛下も!」
「何だ」
「そこまで面白くないでしょう」
「いや」
「何です?」
「思ったより、この部屋がうるさくなったなと思って」
不意打ちだった。
「……昨日まで静かだったんですか」
「ああ」
「それが良かったんじゃ?」
「そう思っていた」
「今は?」
何となく聞いた。
カエルはスープを一口飲んでから、少し考えた。
「悪くない」
手首の刻印が、ほんの少しだけ熱くなる。
私は慌ててパンをちぎった。
「刻印が反応しただけですからね」
「俺は何も言っていない」
「顔が言っています」
「どんな顔だ」
「嬉しそうな顔」
「お前も顔が赤い」
「スープが熱いんです」
「まだ飲んでいないだろう」
「……細かい男ですね」
こういう会話は良くない。
調査に必要ない。
必要ないのに。
少し楽しいのが、一番困る。
◇
夕食後、カエルは三年前の資料を置いて戻っていった。
私室へ戻る直前、
「今夜は一人で調べすぎるな」
と言われた。
「契約条項を覚えてるんですね」
「お前が六枚も増やしたからな」
「おやすみなさい、陛下」
「何かあったら呼べ」
「二十秒の距離ですもんね」
「遠い」
「まだ言う」
扉が閉じる。
少しだけ静かになった。
私は机に戻り、資料を読み始めた。
三年前。
先王太子死亡。
同日深夜、カエルの胸へ不完全な番刻印出現。
それ以前に異常記録なし。
事故か。
病死か。
先王太子の死因を見る。
「……転落死?」
王宮北塔。
深夜。
目撃者なし。
違和感。
ページをめくる。
すると、死亡記録の一部が黒く塗りつぶされていた。
「何これ」
国家機密指定。
なぜ王太子の事故死が国家機密になる。
さらに確認しようとしたところで、目が痛くなった。
時計を見る。
かなり遅い。
「……今日はここまで」
自分に言い聞かせる。
契約を結んだ当日に破るほど私は馬鹿ではない。
たぶん。
立ち上がる。
寝室へ向かう。
そして。
扉を開けた瞬間。
足が止まった。
匂い。
鉄。
生臭い。
嫌な臭い。
寝室は暗かった。
窓から月明かりだけが差している。
「……誰か、いますか」
返事はない。
壁際の魔導灯を点ける。
淡い光が部屋へ広がる。
そこで私は見た。
白い寝具。
昼間、マルタたちが新しく整えてくれたばかりの寝台。
その中央に。
赤黒い文字があった。
血。
指か、何かで書かれている。
『王の番を名乗るな』
しばらく。
本当にしばらく。
何も考えられなかった。
呼吸だけが浅くなる。
昨日から、私は強がっていた。
禁制薬を入れられても。
詐欺師と呼ばれても。
記者に囲まれても。
嫌われても。
仕事だから。
監査官だから。
平気な顔をしていればいい。
そう思っていた。
でも。
これは違う。
自分が眠るはずだった場所に血で文字が書かれている。
誰かが、ここへ入った。
私がいない間に。
私が眠っていた可能性だってある。
心臓が速くなる。
「大丈夫」
自分に言う。
「触らない。まず出口を確保して、警備を――」
声が震えた。
腹が立つ。
震えるな。
私は監査官だ。
もっと酷い事件現場だって見てきた。
死体だって見た。
なのに。
自分が狙われると、こんなに違う。
「……大丈夫」
もう一度言った。
その瞬間。
背後で小さな音がした。
かちり。
何かが動く音。
私は振り返った。
暗い居間。
誰もいない。
いや。
カーテンが。
ほんの少し揺れている。
窓は閉めたはずだった。
「誰?」
返事はない。
右手を腰へ伸ばす。
監査官用の護身短剣。
鞘から抜く。
「そこにいるのは分かっています」
嘘だった。
分かっていない。
でも、そう言ったほうが相手が動くことがある。
「出てきてください。今なら侵入だけで――」
影が動いた。
速い。
「っ!」
横へ避ける。
何かが頬の横を通過した。
短剣。
壁に突き刺さる。
本物だ。
脅しではない。
殺しに来ている。
「衛兵!」
叫ぶ。
しかし返事がない。
廊下に四人いたはず。
おかしい。
侵入者がカーテンの陰から姿を現す。
黒装束。
顔も布で隠している。
手には二本目の刃。
「待ってください」
自分でも間抜けな言葉だと思った。
暗殺者が待つわけがない。
「話し合いません?」
相手が無言で踏み込む。
「ですよね!」
刃が振り下ろされる。
私は短剣で受けた。
腕が痺れる。
強い。
まともに戦ったら勝てない。
私は狼にもなれない。
身体能力だけなら、一般的な狼人族より劣る。
二撃目。
避ける。
肩が壁へぶつかる。
「っ……!」
侵入者が迫る。
喉を狙っている。
まずい。
死ぬ。
本能的に手を前へ出した。
その瞬間だった。
手首の刻印が、焼けるように熱くなった。
「――リア!」
扉の向こうから。
轟音。
厚い木製扉が、蝶番ごと吹き飛んだ。
「え」
思わず間抜けな声が出た。
黒い影が飛び込んでくる。
人ではなかった。
巨大な狼。
夜そのもののような黒い毛並み。
金色の眼。
牙。
侵入者が振り返るより早く、その巨体が相手を床へ叩きつけた。
「ぐっ!」
初めて暗殺者が声を漏らす。
黒狼が吠えた。
部屋の空気が震えた。
私は壁に背中をつけたまま、動けない。
分かる。
説明されなくても。
「……陛下?」
黒狼の耳が、こちらへ向いた。
やっぱり。
カエルだ。
暗殺者が短剣を突き立てようとする。
「危ない!」
刃が黒狼の脇腹へ入った。
血が飛ぶ。
同時に。
「――っ!」
私の脇腹にも、焼けるような痛みが走った。
何?
服を見る。
裂かれていない。
なのに。
痛い。
カエルが傷ついた場所と同じ。
「どうして……」
黒狼が暗殺者を壁へ叩きつけた。
今度こそ男は動かなくなる。
そして次の瞬間、黒い毛並みが揺らぎ、人の姿へ戻った。
「リア!」
カエルだった。
上半身はシャツ一枚。
脇腹が血で濡れている。
「陛下、傷が――」
「俺はいい!」
怒鳴られた。
「お前は!」
「え?」
「どこをやられた!」
カエルが私の肩を掴みかける。
途中で止まった。
契約を思い出したらしい。
「触っていいか」
こんな状況でも聞くのか。
少し可笑しくなりそうになった。
「……はい」
その瞬間、両肩を掴まれた。
かなり強い。
「痛いです」
「すまん」
少し緩む。
「怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「頬をかすめただけです」
カエルの指が私の頬近くへ伸びる。
でも触れずに止まる。
「血が出ている」
「少しです」
「少しではない」
「陛下の脇腹のほうが酷いでしょう!」
言い返した瞬間。
また痛んだ。
「っ……」
「リア?」
「今……」
私は自分の脇腹を押さえた。
「何だ」
「陛下が刺された瞬間、私も同じ場所が痛みました」
カエルの表情が変わった。
「傷はない?」
「ありません。でも痛い」
二人で視線を落とす。
カエルの傷。
私の無傷の身体。
それなのに同じ痛み。
「番契約は完成していないはずですよね」
「ああ」
「伴侶契約だって、何なのかまだ分からない」
「ああ」
「それなのに……」
傷が共有されている。
いや。
痛みだけ?
もっと深いものかもしれない。
私は急に怖くなった。
「もし陛下が死んだら」
「死なない」
「そういう話ではなくて」
「俺は死なない」
「だから!」
「お前の前では死なん」
「話を聞いてください!」
怒鳴った。
今度は私が。
声が震えた。
「もし! もし陛下が致命傷を負ったら、私にも何か起きるんですか? 逆なら? 私が死んだら陛下も? そんなこと、契約書に書いてない!」
「契約書で決められることではないだろう」
「分かっています!」
「リア」
「分かってますよ……」
涙が出そうだった。
嫌だ。
今泣くのは嫌だ。
暗殺者に襲われたからではない。
自分の命が、自分の知らないところで誰かの命と繋がっている。
それが怖かった。
「私、本当にこういうのが嫌なんです」
声が小さくなる。
「勝手に決められるのが。一生も、結婚も、死ぬときまで」
カエルは何も言わなかった。
しばらくして。
「……分かった」
「何がです?」
「調べる」
「当然です」
「この繋がりも。刻印も。誰が襲わせたのかも」
「はい」
「それから」
カエルは少し迷ったあと。
「今夜はここでは寝るな」
「言われなくても嫌です」
「俺の部屋へ来い」
「嫌です」
「なぜだ!」
さっきまでの重い空気が、少しだけ崩れた。
「契約違反でしょう」
「緊急事態だ!」
「同室禁止!」
「客間がある!」
「最初からそう言ってください!」
「お前が最後まで聞かないからだ!」
「陛下の言い方が悪いんです!」
廊下から近衛兵たちが駆け込んでくる。
その中の一人が、息を切らしている。
「陛下! 申し訳ございません!」
「何があった」
「廊下で警備していた四名全員、突然意識を失いました。飲料水に睡眠薬が」
私はカエルを見る。
カエルも私を見る。
計画的だ。
かなり深いところまで入り込まれている。
「侵入者の身元を調べろ」
「はっ!」
「生かしてある」
床を見る。
暗殺者は意識を失っているが、息はある。
よかった。
証言が取れる。
「陛下」
「何だ」
「殺さなかったんですね」
「お前が前に言っただろう」
「何を?」
「自分で何でも片づけるのが怖いと」
覚えていた。
「……だから?」
「証言させたほうが、お前は喜ぶかと思った」
「私のためですか」
「調査のためだ」
「今、言い直しましたね」
「黙れ」
少しだけ。
本当に少しだけ。
胸の奥が暖かくなる。
こんな状況なのに。
そのとき。
マルタが寝室へ入り。
「リア様……」
血文字を見て、顔色を変えた。
私は彼女の視線を追う。
『王の番を名乗るな』
改めて見ると。
ひとつ、奇妙なことに気づいた。
「待って」
「どうした」
「この血」
近づかず、遠目から文字を見る。
匂い。
狼人族なら、ある程度分かる。
でも私は匂いに鈍い。
だから、さっきは単に血だと思った。
しかし。
「マルタさん」
「はい」
「これ、人間の血ですか?」
マルタが少し近づく。
カエルも。
彼の表情が変わった。
「違う」
「何の血です?」
カエルが低く言った。
「狼だ」
「狼?」
「ただの狼ではない」
金色の瞳が細くなる。
「狼人族が変身したときの血だ」
背筋が冷たくなった。
では。
この文字を書くために。
誰かが狼人族を傷つけた?
それとも。
「リア様」
マルタが震えた声を出した。
「この書き方……」
「知ってるんですか?」
返事がない。
マルタは文字を見つめている。
顔から血の気が引いていた。
「マルタさん?」
「……三年前にも」
呟く。
「三年前?」
カエルの顔が険しくなる。
マルタは、ゆっくり振り返った。
「先王太子殿下がお亡くなりになった夜にも……北塔の壁に、同じような血文字が残されていたのでございます」
室内から音が消えた。
「何と書かれていた」
カエルの声は、今まで聞いた中で一番低かった。
マルタは唇を震わせた。
「――『偽りの番を王座へ近づけるな』と」
私は、自分の手首を見る。
銀色の番刻印。
三年前。
先王太子の死。
同じ血文字。
そしてその夜、カエルに現れた不完全な刻印。
偶然ではない。
私を狙った何者かは。
三年前から、この王宮にいる。
あるいは――。
三年前の事件そのものが、まだ終わっていない。
カエルが無言で血文字を見つめていた。
その横顔からは、何の感情も読み取れない。
けれど脇腹の痛みとは別の、重く冷たいものが一瞬だけ胸へ流れ込んできた。
悲しみ。
怒り。
そして。
恐怖。
それが私自身の感情ではないと気づいたとき。
私は初めて理解した。
私たちの間で共有され始めたのは――傷の痛みだけではないのかもしれない。
第89話 エリアス院長の署名はありませんでした。でも、彼しか知らない命令文がありました 三年前、カエルの自然形成を待たずに真正刻印の発現時期を前倒しするよう命じた記録と、エリアス院長が過去二十年近くにわたって作成してきた医療監査文書を並べた結果、一致した特徴は十二項目に達した。 単語そのものではない。 句読点の打ち方でもない。 もっと面倒で、もっと本人らしい癖だった。『死亡回避を目的として』『自然形成を待たず』『本人負担を最小化する範囲において』『ただし不可逆処置については後順位とする』 エリアスは医療介入を提案するとき、最初に必ず目的を書き、その直後に通常手順から何を変更するかを置き、最後に「ただし」で自分自身へ制限を加える。 七年前、私が監査院へ入ったばかりの頃にも、それについて本人から説明されたことがあった。『医療は助けたいという気持ちが強いほど、余計なことまでやります。だから自分へブレーキを書く癖をつけなさい』 当時の私は、その言葉をかなり立派な教えだと思った。 今。 目の前には。『対象王血Aの自然形成を待たず、死亡回避を目的として接触時期を前倒しする。ただし情動形成への直接介入は不可とする』 という三年前の命令文がある。 署名欄は消えている。 でも。 あまりにもエリアスらしい。「一致率だけなら八九・四パーセントです」 独立文書鑑定を担当した王都の老監査官が通信鏡越しに説明した。「ただし、この数字を『エリアス・モーン本人が書いた確率』とは解釈しないでください。今回は文体特徴の類似度にすぎませんから、本人の過去文書を参照して別人が書いた場合でも高い一致が出ます」「代筆もありますよね」
第88話 好きだから全部聞きたい。でも、好きだから聞かない部分も残します カエルへ自分から口づけをした翌朝、私は食堂へ入る直前になって、昨夜まで一度も気にしたことのなかった扉の取っ手を妙に長く握ったまま立ち止まり、このまま部屋へ戻って朝食を抜けば不自然だろうか、とかなり真剣に考えていた。 昨日までは、国王との真正番、九十日間の契約婚、白狼、月鏡、王位継承、兄王子の死という面倒な問題を抱えていても、朝食の席へ行くこと自体を恐れたことはない。それなのに、たった一度、自分から唇を重ねただけで、扉一枚の向こうへカエルがいると思うと妙に落ち着かず、監査院の査問会へ一人で入ったときより緊張している自分が腹立たしかった。「リア監査官、入らないんですか」 背後からユアンに声をかけられ、私は反射的に取っ手を回した。「今入るところです」「三十秒くらい取っ手を見つめていたので、鍵でも壊れているのかと思いました」「考え事をしていただけです」「陛下と何かありました?」「どうしてそこへ行くんです」「昨日、西温室から二人で戻ったあと、陛下が珍しく機嫌よく夕食の追加を頼んでいたので」 私は思わず立ち止まった。「追加?」「はい。肉料理をもう一皿」「それは普段から食べるでしょう」「そのあと甘い菓子まで食べていました。ノア君の硬い焼き菓子ではなく、厨房に蜂蜜菓子を頼んで」「……それは珍しいですね」「でしょう?」「だからといって私と関係があるとは」「僕は何も言っていません」 ユアンが笑った。 こういうとき、いつも以上に彼が腹立たしい。「今日はあなたの職員鍵について第三者鑑識の中間報告が来る予定ですね」「急に仕事へ逃げまし
第87話 刻印が聞こえないまま、私は初めて自分から彼に口づけました 私がカエルと初めて口づけをした日の朝、王都から届いた最初の公文書には、「真正番であることを国民へ証明するため、陛下とリア・ヴェイル監査官は速やかに感情共有を完全再開し、王妃候補として正式な番誓約式を行うことが望ましい」と書かれていた。 昨日までなら、こんな馬鹿げた要求を読めば腹を立てるだけで済んだと思う。 ところが今朝の私は、その一文を読んだ瞬間に腹を立てるのとほとんど同時に、昨夜、部屋の前でカエルの手を離すことを少し惜しいと思った自分まで思い出してしまった。 そのせいで、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのか分からなくなった。「お姉様、さっきから同じところを四回読んでるけど、文章が難しいの?」 朝食の席でセレーネに言われ、私はようやく手元の公文書から顔を上げた。「文章自体はかなり単純です。むしろ単純すぎるから問題なんです」「じゃあ、どうして四回も?」「内容に腹が立っているので、反論文を書く前に読み直しています」「ふうん」 セレーネは疑わしそうに私の顔を見たあと、向かいに座るカエルへ視線を移した。「陛下、何か知ってる?」「俺に聞くな。今朝はまだまともに話していない」「本当に?」「朝食前に廊下で会って、『おはようございます』と『おはよう』しか言っていない」「お姉様が陛下に対して『おはようございます』しか言わなかったの?」「それくらい普通でしょう」「最近なら、そのあと『昨夜は眠れましたか』『昨日見た映像の後遺反応はありませんか』『朝食はちゃんと食べましたか』くらい聞きそうなのに」 かなり失礼な分析だった。「私を何だと思っているんです?」「心配性なのを仕事だと言い張るお姉様」
第86話 感情共有を戻す前に、私たちは「戻さない選択」も残すことにしました 兄君を抱きながら泣いている三年前のカエルを映像で見た翌朝、白狼封印を診察していた老医師から「現在の状態なら、閉鎖している番共有を段階的に再開できます」と告げられたとき、私は自分でも意外なほど嬉しくならなかった。 もちろん、悪い知らせではない。 外周封印が部分的に破れた直後の私は、カエルから流れ込む感情や疼痛だけでも白狼核が反応し、最悪の場合には再び制御を失う危険があった。そのため生命力、疼痛、情動の共有を一度すべて閉じ、真正番としての根だけを残した状態で過ごしてきたのだから、再開可能という診断自体は私の身体が安定した証拠だった。 それなのに。「全部を一度に戻す必要はないんですよね」 私が最初に尋ねると、老医師は少しだけ笑った。「リア監査官なら、まずそこを聞くだろうと思っていました。第一原典で確認された古い接続方式なら、生命補助、急性危機警報、疼痛共有、情動共有を別々に管理できます。現行番制度では完全接続を正常状態としていますが、本来は本人たちが必要な機能だけ選ぶ仕組みだったようです」 カエルが診察室の向かいで腕を組んだ。「逆に言えば、今のまま何も戻さないという選択もできるのか」「医学的には可能です。真正共鳴の根幹そのものを切断しているわけではありませんから、共有機能を閉じた状態でも生命維持上の問題はありません」「白狼封印への負担は?」「現在はむしろ閉鎖状態のほうが安定しています。ただし、限定再開しても危険域へ入る可能性は低いところまで下がりました」 つまり。 戻せる。 でも。 戻さなければならないわけではない。 その違いが、以前なら存在しなかった。「どうしますか」 老医師に尋ねられ、私はカエルを見る。 彼
第85話 三年前、カエルは月鏡の前で兄を抱いていました 三年前の夜、カエル・ドラヴェンが月鏡の前で何をしていたのかを示す映像が復元できたという知らせが届いたとき、私は嬉しいとは思わなかった。 むしろ最初に思ったのは、これを本人へ見せていいのだろうか、ということだった。 カエルが失っている三日間は、単に「事件について覚えていない時間」ではない。その始まりには兄の死があり、その直後には急な王位継承、王血月脈の過負荷、高濃度の同期薬、記憶安定処置、そして本来なら数年後だったはずの真正刻印形成が重なっている。 もし映像の中へ、自分が兄を傷つけている姿があったら。 もし逆に、助けようとして失敗している姿があったら。 どちらであっても、見なかった頃の自分へは戻れない。「先に私たちだけで内容を確認することはできます」 ユアンが言った。「陛下本人へは、監査上必要な部分だけ文章で説明する方法もあります。映像そのものを見る必要はありません」 私は頷いた。「それも選択肢として出しましょう。ただし私が先に見た場合、あとから説明するとき無意識に表情へ出る可能性があります」「そこまで気にします?」「この人、最近かなり私の顔を読めるようになっているので」 隣にいたカエルが呆れた。「本人を目の前にして、俺の映像をどう扱うか勝手に相談するな」「では聞きます。三年前の月鏡関連映像が部分復元されました。あなたと、兄君と思われる人物が映っています。ただし内容はまだ私も見ていません。あなた自身が先に見る、私たちだけで確認して必要事項を文章で伝える、映像を見ずに解析結果だけ聞く、今日は何も確認しない、この四つから選べます」 カエルは私を見た。「お前も見ていない?」「はい」「俺が見ないと言ったら?」「
第84話 監査官を殺すより、監査結果を信じられなくすればいい 私が一度も書いた覚えのない文章へ私自身の署名が付され、「古代原典の一部は王権制限を目的として意図的に再構成した」と記載された偽造頁が、独立鑑定へ送る資料の中から発見されたという報告を受けたとき、最初に感じたのは恐怖より怒りだった。 誰かが私を殺そうとすることには、ここ数週間で嫌になるほど慣れてしまったと言えばおかしな話だが、襲撃者なら捕まえられるし、毒なら成分を調べられるし、刻印を偽造されたなら亀裂を見つけられる。しかし、「リア・ヴェイルは政治目的のため古代資料を書き換えた監査官である」という疑いを一度社会へ撒かれた場合、それを完全に回収することは、焼かれた紙を復元するよりずっと難しい。「問題の頁を原本から隔離し、誰が最初に触れたのかを時刻順で全部出してください。それから私の署名について、通常の筆跡照合だけではなく、月印認証と使用されたインク、紙の年代、押印圧まで分けて調べます」 私は王都から送られてきた複製映像を見ながら指示を出した。 ユアンがすぐ隣で補足する。「偽造頁が見つかった箱そのものは、北境から直接発送した複製ではありません。北境原本を王都の中継監査所で再複製し、独立鑑定員へ配布するため十二部へ分けたうちの一部です」「つまり、北境を出たあとに混入した可能性がある?」「あります。ただし北境で作成した複製そのものが差し替えられていた可能性も、まだ排除できません」「では、私たち側の保管記録も全部止めて確認します」 セレーネが困惑した顔をした。「でもお姉様、原本はここにあるでしょう。偽造頁と見比べれば、どっちが本物かすぐ分かるんじゃないの?」「私たち自身は分かります」「だったら」「外の人も同じように信じてくれるとは限りません」 私は自分でも嫌になるほど、その言葉を冷静に言えた。「私が『こちらが本物です』と示して







